【ジャマイカの新星】キシェーン・トンプソン:9秒75の衝撃と東京2025への挑戦

【ジャマイカの新星】キシェーン・トンプソン:9秒75の衝撃と東京2025への挑戦

歴史的快挙:9秒75が意味するもの

2025年6月ジャマイカ選手権男子100m決勝でキシェーン・トンプソン選手が9秒75の驚異的なタイムをマークしました。この記録は世界歴代6位タイで、2015年以来誰も到達していなかった領域です。

同レースはキングストンのナショナルスタジアムで行われ、-0.8m/s(向かい風)という条件下での快走となりました。

決勝ではトンプソンがスタートから飛び出し、そのままトップでフィニッシュ。2位には(9秒83、自己ベストまで0.02秒)、3位アキーム・ブレーク(9秒88、自己ベスト更新)と、3人が9秒台後半を記録する層の厚いレースでした。この9秒75は自身の従来の自己記録を0秒02更新するものであり、ウサイン・ボルトやヨハン・ブレークら伝説的スプリンターに次ぐ史上6人目の「9秒75以内の男」となりました。

トンプソンはレース直後、「自分の実力は自分が一番わかっている。仮に世界記録を出しても驚かないだろう」と自信を示し、今回の快走も「予定通り」と語りましたが、この強気な発言からもわかるように、9秒75達成は突然のまぐれではなく、彼自身が描いてきた軌跡の延長線上にある快挙だったと言えるでしょう。

プロフィールとキャリアの歩み

出生と幼少期

トンプソン選手は2001年7月17日生まれ、ジャマイカ中部クラレンドン教区の沿岸部にあるミッチェル・タウン出身です。幼い頃から俊足で、小学校のスポーツデーでは常にスター選手でした。2008年北京五輪のテレビ中継で、当時7歳のトンプソン少年はウサイン・ボルトの9秒69優勝に衝撃を受けています。

「あの瞬間にもらった鳥肌と興奮は他に代え難いものでした。人間があそこまで到達できるなんて…僕もそれ以上を目指すべきだと感じたんです」と、後年当時を振り返り語っています。

この体験が彼の陸上人生の原点となりました。

学生時代から台頭まで

高校はガーベイ・メイシオ高に進学し、在学中から頭角を現します。ただし度重なるケガにも悩まされ、才能を発揮しきれない時期もありました。高校卒業時には米国大学への奨学金オファーもありましたが、家族思いのトンプソンは故郷に留まりジャマイカ国内で競技を続ける道を選択します。

名門MVPトラッククラブのポール・フランシス氏(著名コーチ、スティーブン・フランシス氏の弟)の勧誘を受け入れ、地元に残ってプロスプリンターとしての道を歩み始めました。家族には双子の兄弟キショーンと姉のキーシャ=ゲイがいて、強い絆で結ばれた家庭環境が彼の支えとなっています。母グレースさんも「小さい頃から努力家で、勉強でも陸上でも常に全力を尽くす子です。ケガで苦しんだ時期を乗り越え、この夢の舞台に立てて本当に誇らしい」と語っています。

主な戦績ハイライト

  • 2023年国内選手権100m予選で9秒91をマークし一躍注目。コーチの計画により準決勝以降は棄権し、一発勝負で記録を狙う戦略をとりました。夏のダイヤモンドリーグ・モナコ大会で国際デビューし5位(10秒04)、9月の厦門大会で9秒85の2位と自己記録を更新するなど、世界で戦える手応えを掴みます。しかし複数回ラウンドの大会ではまだ慎重が必要なコンディションでした。
  • 2024年6月のジャマイカ五輪選考会で9秒77をマークし初の全国タイトル獲得。世界歴代トップクラスのタイムに国内外が沸き、五輪本番(パリ2024)でも金メダル候補の一人として臨みます。五輪100mでは快調に勝ち上がり、決勝で米国のノア・ライルズと同タイムの9秒79をマークする大接戦の末、写真判定でわずか0.005秒及ばず銀メダルとなりました。フィニッシュ後、一時は勝利を確信したものの結果は2着と知り、「自分のスピードを最後まで信じきれなかった。悔しい気持ちはあるが、この経験をありがたく受け止めている」とコメントしています。ライルズとはこの年3回対戦し唯一の黒星を喫しましたが、以降は大舞台で互角に渡り合える自信を深めました。五輪後は軽い怪我の治療に専念し、シーズン後半の大会出場は見送りました。
  • 2025年万全の状態で臨んだシーズン序盤、異例にも60m短距離レースから始動。1月には中央リレー大会60mで6秒48の自己新を記録し(-2.1mの向かい風下)、ジャマイカ歴代5位の好タイムで開幕。冬季にショートスプリントを取り入れたのは「スタートの強化」を狙った新たな試みで、コーチのフランシス氏も東京世界陸上へ向けた調整として「例年と違うプラン」を示唆しています。その後5月上海DLでは9秒99(2位)、地元キングストンのレーサーズGPで9秒88(優勝)と順調にタイムを伸ばし、迎えた6月のジャマイカ選手権で冒頭の9秒75を叩き出しました。準決勝も9秒80と安定した速さを披露しており、五輪銀メダリストから“世界最速の男”候補へと名実ともに成長を遂げています。

名コーチとの二人三脚と緻密なトレーニング

トンプソンの飛躍を語る上で、MVPトラッククラブの名将スティーブン・フランシス・コーチの存在は欠かせません。

アサファ・パウエルやエレイン・トンプソン=ヘラら数々のスプリントスターを育て上げた名伯楽は、トンプソンにも独自の育成プランを用意しました。フランシス氏は2023年、故障がちだったトンプソンを守るため「今年は一発勝負のレースに集中させる」と敢えて国内選手権で準決勝以降を走らせない戦略をとりました。

予選で9秒91という衝撃的なタイムを出し観客を驚かせましたが、フランシス氏自身は「本来ならもっと速く走れたはずだ」とまで述べ、レース運営側の不手際(トンプソンの走ったレーンが不利な状態だったこと)を指摘するほど、選手の潜在能力を高く評価していました。

その確信は「万全の条件なら9秒8切りも可能」との期待につながり、実際にトンプソンは翌年それを証明してみせたのです。

また、フランシス氏はトンプソンのレース日程も綿密に管理しています。2023年夏は欧州の選ばれた大会で経験を積ませ、2024年は五輪本番でピークを迎えるよう調整されました。

五輪後には疲労と怪我を考慮し、予定されていたダイヤモンドリーグ出場もキャンセル。そして2025年、短い60mレースへの出場は「トップスピードの強化とスタート技術の研磨」という新たな試みであり、東京世界陸上での栄冠を見据えたフランシス氏の戦略といえます。

トンプソン自身、「フランシス・コーチの指導のもと練習を積み重ねてきたことで、自分の持つスピードを徐々に理解し、100%引き出す術を学んでいる」と語っており、その信頼関係は非常に強固です。9秒75直後のインタビューでも「自分が出す記録に驚くことは二度とない。自分の能力を知っているし、さらに細部の精度を上げればもっと速くなる」と自信満々に語る姿から、選手のポテンシャルを最大限に引き出すコーチングが奏功していることが伺えます。

スプリント技術と強み:スタートからトップスピードまで

トンプソン選手の走りはバランスの取れたスプリントと評されます。身長185cmの恵まれた体格から繰り出すストライドと、鍛え抜かれた加速力が武器です。

以前はスタートの反応に課題があるとも言われましたが、2025年シーズンに60m短距離で自己ベストを更新するなど、その弱点克服にも余念がありません。実際、向かい風の条件下で6秒48という60mタイムを出したことは、加速局面の力強さを示しています。9秒75を出したジャマイカ選手権決勝でも、スタートで他をリードすると中盤以降もスピードの伸びを維持し、最後まで誰にも抜かせませんでした。

トップスピードに乗ったときの走りは「まるでボルトを彷彿とさせる」との声もあります。後半の伸びと地面を捉える推進力に優れ、ゴールまで失速しない持久的スプリントが彼の特徴です。

もっとも本人は「まだ完璧なレース運びではなかった」と自己分析しています。9秒75のレース後、「実はあの決勝でも自分の走りを完全には出し切れていないんです。スピードのコントロールや技術面で詰める余地がある」と語っており、フォームや後半の局面でさらに改善できると感じているようです。

これは裏を返せば、彼が今後9秒7を切るさらなる高速域に達する可能性を秘めていることを意味します。事実、コーチのフランシス氏も「選手権の9秒77(※五輪選考会時点)よりさらに数段階上の走りを大会本番では見せるだろう」と五輪前に予言しており、トンプソンは期待に応えて9秒75まで記録を伸ばしました。

今シーズンここまで屋外100mは一度しか敗れていないという安定感も大きな強みです。精神面でも大舞台を経験し落ち着きが増しており、スタート前の緊張にも動じない度胸が備わってきました。本人いわく「7人ないし8人の速いランナーが並ぶ状況自体が好きだ。競り合いがスポーツを盛り上げるんだ」とのことで、大歓声の中で実力者たちと競うことをむしろ楽しめるタイプだと言えます。こうしたメンタルの強さと技術の研鑽が相まって、トンプソンはスプリンターとして総合力の高い選手へと成長しています。

世界のライバルたちとの比較

男子100m界は現在群雄割拠の様相を呈していますが、その中でもトンプソンは台頭著しい存在です。最大のライバルは何と言ってもアメリカのノア・ライルズでしょう。

ライルズは東京2020五輪の200m金メダリストであり、2024年パリ五輪100m決勝ではトンプソンを0.005秒差で押さえ金メダルを獲得したスプリント王者です。さらに2022年・2023年の世界選手権100mを制し(ライルズは2023年大会で9秒83の自己最高タイムをマーク)、現在100mと200mの2冠王者として君臨しています。2025年の世界選手権には前回覇者として予選免除(ワイルドカード*で出場が決まっており、春先に負った足首の軽傷も本番までには万全に仕上げてくると見られます。トンプソンとしては、このライルズとの再戦で雪辱を果たし頂点に立つことが最大の目標になるでしょう。

他にも強豪は目白押しです。

アメリカ勢ではフレッド・カーリー(2022年世界王者、自己ベスト9秒76)、クリスチャン・コールマン(2019年世界王者、自己ベスト9秒76)、トレイボン・ブロメル(元世界ジュニア王者、PB9秒76)ら歴代9秒7台の実力者が揃います。特にカーリーは2021年東京五輪銀メダリストでもあり、持ち前の後半の伸びで脅威となる存在です。

また、アフリカからはケニアのフェルディナンド・オムルヤ(アフリカ新記録9秒77)も台頭してきました。2022年の英連邦大会王者であるオムルヤは、爆発的な前半疾走が持ち味です。さらにボルト以来の若きスター候補として注目されるのがボツワナのレツィレ・テボゴです。テボゴはまだ20歳ながら、2023年世界選手権で9秒88のアフリカ新記録を樹立し銀メダルを獲得しました。伸び盛りの彼は将来トンプソンと覇を競う存在になる可能性があります。

一方、欧州勢にも有力選手がいます。イギリスのザーネル・ヒューズは2023年に9秒83の英国新記録を樹立し、同年の世界選手権で銅メダルを獲得しました。長身から繰り出す強力な走りで、近年成長著しいスプリンターです。東京五輪金メダリストのマルセル・ジェイコブズ(イタリア)も怪我からの復調が鍵ですが、実績的には無視できない存在です。

そして忘れてならないのが、同じジャマイカ勢のチームメイトたちです。オブリーク・セビルは近年世界大会でも決勝常連の安定株で、自己ベスト9秒86を誇ります。2025年国内選手権でも9秒83をマークしトンプソンに肉薄しており、東京で二人揃って表彰台を狙います。また若手のアキーム・ブレーク(PB9秒88)も含め、ジャマイカ男子短距離は一時低迷から復活しつつあります。セビルは「トンプソンの存在がチーム全体の士気を上げている」と語っており、良きライバル関係が国内でも育まれています。

こうしたライバルたちの中で、トンプソンの9秒75という記録は頭一つ抜けた存在感を放ちます。今年(2025年)世界ランキングでも現在堂々の1位タイ記録となっており(他にこのタイムに迫る選手はいません)、文字通り“世界最速の男”の称号に最も近い位置につけています。トンプソン自身、「対戦相手を名指しするつもりはない。全員が強敵だし、だからこそレースは面白い」としつつも、強豪ひしめく中で勝つことへの闘志は燃やしています。

東京2025への展望と意気込み

今年9月に控える世界陸上競技選手権・東京大会(2025年)に向け、トンプソン選手への期待は日に日に高まっています。地元ジャマイカでは、「ボルト以来の世界王者誕生か」と報じるメディアもあり、国中のファンが熱い視線を送っています。

実際、2015年にウサイン・ボルトが世界選手権100mを制して以来、男子100mはアメリカ勢が4大会連続で金メダルを獲得してきました。トンプソンはこの流れを止め、「ジャマイカに栄冠を取り戻す」使命を帯びて東京に乗り込むことになります。

本人もその重圧をプラスに変えられるタイプです。「自分は極めて自信家だ。仮に世界記録(9秒58)を破ったとしても驚かないくらいだ」と豪語するトンプソンは、「だからこそ常に油断せず、持てるスピードを完全に制御し、技術を詰めていくだけだ」とさらなる向上心を燃やしています。9秒75というタイムに慢心はなく、「正直まだ完璧なレースじゃない。細部を詰めればもっとやれる」という発言には世界一への強い意欲がにじみ出ています。

また、「今回の世界選手権は4連覇中の米国勢に挑む大会になる。その牙城を崩すのは自分しかいない」という覚悟も周囲に示していると報じられています。9秒台の高速決着が予想される東京の舞台で、持ち前のトップスピードと勝負強さを発揮すれば金メダルは十分射程圏内でしょう。

地元紙のインタビューで「日本はボクにとって特別な場所。2021年には(東京五輪代表からは漏れたが)初めてチームの一員として世界大会に挑んだ思い出がある。そして今度は、自分が主役として戻ってくる」と語っており、東京には格別の思い入れがあるようです。

さらにトンプソンの強みはリレーでも生きる可能性があります。ジャマイカ男子4×100mリレーは近年メダル争いから遠ざかっていますが、2025年はトンプソンという切り札を得て復権を狙っています。本人も「チームJamaicaとして世界一速い国であることを証明したい」と語っており、個人種目のみならずリレーでも大仕事を成し遂げる意気込みです。

人柄とエピソード:静かなる闘志

トンプソン選手はトラック上の豪快な走りとは裏腹に、普段は物静かで謙虚な人物として知られています。Netflixで2024年に公開されたスプリント競技のドキュメンタリーシリーズでも取り上げられましたが、控えめな性格ゆえ出番は少なめでした。本人も「ああいう映像作品に自分は向いてないと思う。僕は本当に“地味な男”だから」と笑いながら語っています。

派手なパフォーマンスで観客を沸かせたウサイン・ボルトとは対照的に、レース前も淡々と集中するタイプです。しかし内に秘めた勝利への執念は人一倍で、五輪での僅差の敗戦後は「正直ものすごく悔しい。自分は彼(ライルズ)より速いはずだと今でも思っている」と吐露したこともありました。その悔しさをバネにして練習に打ち込むストイックさが、彼の真骨頂と言えるでしょう。

家庭では気さくで優しい一面を見せる青年でもあります。特に双子の兄キショーンさんとは仲が良く、幼少期から切磋琢磨してきました。五輪の決勝を前に母グレースさんから電話で「リラックスして、いつも通りやりなさい」と声を掛けられ、「うん、わかってるよ」と穏やかに答えたというエピソードも伝えられています。

大舞台でも平常心を保てるのは、家族の支えと温かい故郷コミュニティの存在が大きいようです。実際、地元ミッチェル・タウンでは世界大会のたびに住民総出でパブリックビューイングが行われ、彼の活躍に歓喜するそうです。そうした声援はトンプソンにとって何よりの励みであり、「自分は家族と国を誇らしく思わせたい、そのために走っている」と語っています。

憧れの存在は前述の通りウサイン・ボルトで、「ボルトが築いたジャマイカ短距離の伝説を引き継ぎ、さらに高みに押し上げたい」という強い意志があります。ボルト本人も最近のインタビューで「トンプソンの走りには注目している。彼なら自分の記録に迫るかもしれない」とエールを送っており、英雄からの激励にトンプソンは「とても光栄なこと。彼の言葉を力に変えていきたい」と感激した様子でした。

総じて、トンプソン選手は派手さはなくとも芯の強さと明晰な自己分析力を持ち合わせた“静かなるスプリント界の革命児”です。

常に前向きで「驚きはない、あるのはさらなる向上のみ」と語るその姿勢は、ファンにとっても頼もしく映ります。東京で迎える世界選手権では、彼のこれまでの努力と情熱が一つの集大成を迎えることでしょう。

ジャマイカの新星が世界のトップに立つ瞬間に、スポーツファンならずとも大いに注目が集まっています。その瞬間、9秒75を更新するような圧巻の走りでゴールテープを切るトンプソンの姿が見られるかもしれません。彼が放つ閃光のような走りが、東京のトラックで歴史を塗り替える日も目前です。世界中が彼の挑戦を固唾を飲んで見守っています。