
世界記録の現在地:6メートルを超える“鳥人”の偉業
男子棒高跳の世界記録は、陸上ファンならずとも注目すべき驚異的な高さです。現在の世界記録保持者はスウェーデンのアルマンド・デュプランティス選手で、その記録は6メートル28に達します。デュプランティスは2025年6月15日、ストックホルムで開催されたダイヤモンドリーグにおいて6m28の跳躍に成功し、自身が保持していた世界記録を更新しました。
この6m28という高さは、1994年にセルゲイ・ブブカ(ウクライナ)が樹立した6メートル14という従来の記録を大きく上回るもので、いかに次元の違う大記録であるかが分かります。ブブカは「空飛ぶ鳥人」と称されましたが、デュプランティスはその記録を次々と塗り替え、“現代の鳥人”として陸上界の頂点に君臨しています。
デュプランティスは若干20代半ばにして、これまで十数回も世界記録を更新している稀有な選手です。2020年に6m17でルノー・ラビレニ(フランス)の室内世界記録を破って以降、6mを超える跳躍を当たり前のように成功させ、記録を少しずつ伸ばしてきました。
2024年のパリ五輪では6m25の世界新記録で金メダルを獲得し、さらに同年8月にはポーランド・シレジアで自身の記録を6m26に更新しています(2025年現在の自己ベストは6m28)。こうした経緯から、6m14という長年破られなかった記録を大幅に塗り替えたデュプランティスの跳躍は「人類史上最高」とも称され、まさに陸上界の歴史に残る偉業となっています。
記録の意義もさることながら、その内容も圧巻です。デュプランティスのジャンプは助走から離陸、そしてバーを越えるまでの一連の動きが非常にしなやかで美しく、初心者でも息を呑むような迫力があります。東京世界陸上2025では、このデュプランティスがさらに世界記録を更新できるかが大きな注目ポイントです。
大会では彼の試技一つひとつがハイライトとなること間違いなく、「世界最高」を生で目撃できる大チャンスとなるでしょう。
棒高跳の基本ルール:試技、成功と失敗、バーの高さ
棒高跳は、助走をつけてポール(棒)を地面の「ボックス」と呼ばれる穴に差し込み、その反発力を利用してバー(横木)を越える競技です。最大の特徴は、ポールがしなる反動を使うことで、人間が自らの力だけでは到達できない4~6メートルもの高さまで跳べる点にあります。
バーの高さは大会ごとに設定された開始高さから少しずつ上げられ、選手たちは自分がクリアできると思う高さから競技に参加します(例えば大会によっては5m00台から開始し、以降5~10cm刻みで高さを上げていくなど)。以降は全員が同じ高さのバーに挑戦し、成功者が次の高さに進んでいく方式です。
試技回数は各高さごとに最大3回までと定められています。ある高さでバーを3回連続で落としてしまった場合、その選手はそこで競技終了となり、最後に成功した高さがその選手の記録(順位)となります。逆に言えば、1回目や2回目で失敗しても3回目で成功すれば次の高さに進めます。
また、体やポールがバーに触れてもバーが落下しなければ成功と判定されますが、跳躍後にポールがバーに当たってバーが落ちた場合は失敗となります。そのため、空中でポールを体から押しやるようにしてバーに当たらないようにするテクニックも重要です。
バーの高さ設定とパスの戦略も競技の醍醐味です。選手は必ずしも全ての高さに挑戦する必要はなく、自分の戦術に応じて「パス(試技見送り)」することが可能です。
例えば、ある高さは飛ばずに次の高さから挑む、といった選択ができます。パスは何度でもできますが、注意しなければならないのは失敗が3回続いた時点で競技終了というルールです。途中の高さをパスして次に挑んだものの、その次の高さで残りの試技も全て失敗してしまうと、結局記録として残るのは最後に成功した(パスした前の)高さまでとなってしまいます。
そのため、自己記録更新や上位入賞を狙って敢えて高さを飛ばすリスクと、自分のコンディション・他選手の状況を見極めて確実にクリアしていく安全策との駆け引きが生まれます。
同記録時の順位決定は、棒高跳ならではのルールがあります。
複数の選手が同じ高さまで成功して競技を終えた場合、まずその高さにおける試技成功までの回数が少ない方が上位となります(例:同じ5m60を成功でも、A選手が2回目で成功、B選手が3回目で成功ならA選手が上)。
それでも差がつかない場合は、全ての高さを通じた失敗の少なさで比較し、なお完全に並んだ場合のみ優勝をかけてジャンプオフ(決着がつくまで一回ごとの高さ変更制の試技)が行われます。もっとも、ジャンプオフまで発展するケースは稀で、通常は試技数の差で順位が決まります。
日本人選手に注目!トップ選手と期待の新星たち
世界のハイレベルと比べると、日本の男子棒高跳はこれまで世界大会でのメダル実績はありませんが、近年は着実にレベルが上がってきています。
まず日本記録を見てみると、5メートル83という高さが公式に認められた日本記録で。この記録を持つのは澤野大地選手で、2005年に静岡県で開催された大会で樹立しました。澤野選手は2000年代に日本の棒高跳び界をけん引し、アテネ・北京オリンピック代表にもなったレジェンドです。その澤野選手の記録5m83に迫るべく、現在の日本勢も研鑽を積んでいます。
日本のトップ棒高跳選手たちのプロフィール
日本の主な男子棒高跳選手の自己記録と実績は以下の通りです。国内記録に近い高さに挑むベテランから、国際大会で経験を積む若手まで、それぞれに注目です。
選手名 | 自己ベスト | 主な実績・特徴 |
---|---|---|
山本 聖途(やまもと せいと) | 5m77 | 2013年世界選手権6位入賞、2018年アジア大会金メダルなど。日本選手権優勝5回以上の国内王者で、東京五輪含めオリンピック2大会出場経験あり。33歳(2025年)ながら近年自己記録に迫る跳躍を見せており、5m83の日本記録更新を視野に挑戦中。 |
江島 雅紀(えじま まさき) | 5m71 | 日本歴代3位タイの記録保持者。2018年世界U20選手権で銅メダル獲得、2019年ドーハ世界選手権・2021年東京五輪出場。富士通所属。2022年に大怪我を負ったが復帰し、国際大会初優勝も経験。安定感のある跳躍で再び自己記録更新を狙う。 |
柄澤 智哉(からさわ ともや) | 5m62 | 2002年生まれの新鋭。2023年日本選手権優勝者で、同年の世界選手権ブダペスト大会にも日本代表で出場した※。2024年には自己ベストを5m62まで伸ばし世界水準に近づきつつある。大学在学中から頭角を現し、将来の日本記録更新も期待されるホープ。 |
澤野 大地(さわの だいち) | 5m83 | 日本記録保持者。2005年に5m83を樹立し、以後約20年にわたり破られていない。アテネ・北京五輪代表、世界選手権でも入賞経験あり。現在は競技会から退いているが、日本棒高跳び界のパイオニア的存在であり、後進の選手たちの憧れ。 |
※柄澤選手は2023年世界選手権では予選で惜しくも決勝進出を逃しましたが、その経験が翌年以降に生きると期待されています。
日本勢のエース格はやはり山本聖途選手でしょう。山本選手は学生時代から次々と記録を伸ばし、ロンドン・リオデジャネイロと二大会連続でオリンピック代表となった実績の持ち主です。2013年の世界選手権(モスクワ)では6位入賞を果たし、日本人男子棒高跳では久々の世界大会入賞者となりました。自己ベストは5m77で日本歴代2位の記録を保持しています。
30代に入り一時は故障や不調に苦しみましたが、2024年日本選手権では5m50で優勝し見事にカムバック。優勝後には「来年(2025年)は東京で世界陸上がある。今年出られなかったパリ五輪の悔しさを、来年にぶつけたい」とコメントしており、地元開催の大舞台に賭ける思いは人一倍です。山本選手にとって、日本記録5m83の更新と世界大会での入賞・メダル獲得が大きな目標であり、その集大成の場が東京世界陸上2025となるでしょう。
続く存在としては江島雅紀選手が挙げられます。江島選手は2010年代後半から台頭した選手で、2018年U20世界選手権での銅メダル獲得により将来を嘱望されました。自己ベスト5m71は日本歴代3位タイという高記録で、2019年世界選手権(ドーハ)や東京五輪にも出場するなど国際経験も豊富です。
近年は大怪我を乗り越えて競技を続けており、2023年には国際大会で優勝(5m50での優勝)を飾るなど復調の兆しを見せています。強い精神力と安定感ある跳躍が持ち味で、再び自己記録を更新すれば6m台も見えてきます。東京世界陸上では、かつてのU20世代のエースがシニアの舞台で飛躍を遂げるか注目です。
そして柄澤智哉選手は、現在最も成長株として期待される若手です。高校時代から頭角を現し、2021年には日本選手権2位、2023年に21歳で日本チャンピオンに輝きました。2023年の世界選手権では日本勢唯一の代表として出場(予選敗退)し、世界の壁を肌で感じています。
その後も記録を伸ばし、自己ベストを5m62まで更新しました。身長は高くありませんがスピードを活かしたダイナミックな跳躍が特徴で、若さゆえの伸びしろがあります。地元開催の世界大会でまずは決勝進出を狙い、将来的には「日本人初の6mジャンパー」になる可能性も秘めています。
東京世界陸上2025:大会スケジュールと男子棒高跳の見どころ
大会日程と男子棒高跳の予定
男子棒高跳は大会序盤に組まれており、予選が開幕初日の9月13日(土)夜、決勝は9月15日(月・祝)の夜に行われる予定です。具体的には、9月13日のイブニングセッション(18:50開始予定)で予選が実施され、そこで規定の高さをクリアした選手および上位選手が翌々日の決勝に駒を進めます。
男子棒高跳決勝は9月15日20時10分開始予定で、同日のメインプログラムの一つとなっています。平日の夜ではありますが祝日(敬老の日)でもあり、多くの観衆が国立競技場に詰めかけ、日本人選手や世界のトップ選手の跳躍に声援を送ることでしょう。
注目の見どころ:世界新への期待と日本勢のチャレンジ
男子棒高跳びは、東京世界陸上2025における最大の見どころ種目の一つになるといっても過言ではありません。なんと言っても前述のアルマンド・デュプランティス選手の存在です。跳躍の王者として紹介されるデュプランティスは、東京大会でも圧巻のパフォーマンスを見せてくれるでしょう。25歳にして世界記録保持者の彼が、観衆の後押しを受けてさらなる高み(6m30やそれ以上)に挑む可能性も十分にあります。
「東京五輪では惜しくも達成できなかった世界記録を、今度こそ国立競技場で成し遂げる」との声もあり、世界中のファンが注目する存在です。実際、デュプランティスは東京2025で3度目の世界選手権優勝が懸かる大本命であり、大会最大の注目ポイントは彼が世界新記録を更新するかどうかだと言われています。
もちろん、デュプランティス以外にも見逃せない選手が揃います。近年の世界大会では、フィリピンのE.J.オビエナ選手が2022年世界選手権で銀メダル、2023年大会で銅メダルを獲得しており、アジアの選手として初めて6m台(6m00)を跳ぶなど躍進を遂げています。
また、アメリカのクリストファー・ニルセン選手やKCライトフット選手、かつてデュプランティスと競り合ったフランスのラビレニ選手(2014年に6m16の世界記録経験者)など、世界には5m80~6m00超を狙える実力者が数多くひしめいています。彼らがデュプランティスに挑戦し、高度な駆け引きや記録合戦が展開されるのも男子棒高跳の醍醐味です。
日本勢にも大いに期待しましょう。前述の山本聖途選手は地元開催で悲願の世界大会決勝進出・入賞を目指しています。観客の声援は高さへの挑戦において大きな後押しとなるはずです。また、江島雅紀選手、柄澤智哉選手らが決勝の舞台に勝ち上がってくれば、日本のファンにとってこれ以上ない盛り上がりとなるでしょう。
特に柄澤選手は世界選手権ではまだ若く経験不足ながらも、東京の大観衆を味方につければ思わぬジャンプが飛び出す可能性もあります。日本人選手が6mに迫る瞬間や、場合によっては表彰台争いに絡むシーンが見られれば、スタジアムのボルテージは最高潮に達するに違いありません。
最後に、東京世界陸上2025全体の雰囲気も見どころです。ナイトセッション導入や最新テクノロジーを駆使した演出により、観客はまるでライブショーのような体験ができるでしょう。棒高跳びでは選手が成功するごとに場内が大歓声に包まれ、失敗すればため息が漏れるという独特の緊張感があります。
世界記録級の高さにバーが上がった際には、何万人もの観衆が静まり返って選手の動きを見守る、スタジアム全体が一体となる瞬間も訪れます。東京大会では、その劇的な瞬間をぜひ現地で、あるいはテレビ中継や配信で楽しんでください。男子棒高跳はきっと、陸上競技の醍醐味と感動を存分に味わわせてくれる種目となるでしょう。