【1999年セビリア】記録面でもドラマ面でも語り草の多い世界陸上を振り返る

【1999年セビリア】記録面でもドラマ面でも語り草の多い世界陸上を振り返る

1999年8月20日から29日にかけて、スペイン南部アンダルシア地方の都市セビリア第7回世界陸上競技選手権大会(IAAF World Championships in Athletics)が開催されました。主会場は新設のエスタディオ・オリンピコ・デ・セビージャで、約6万人収容の近代的スタジアムです。大会には201の国と地域から1,821人の選手が参加し、20世紀最後の世界陸上として大きな注目を集めました。

セビリアは夏の酷暑で知られ、この大会期間中も連日高温に見舞われました。そのため大会史上初めて午前中のセッション数を減らす措置が取られ、午前に実施されたのはわずか4日分(加えて女子マラソン)のみという異例のスケジュールとなりました。

炎天下での競技を避けるため日程が工夫され、マラソンなど耐久種目は早朝や夜間に行われました。開催地セビリアの熱気と文字通りの暑さが大会全体を特徴づけることになりました。

注目された競技・スター選手たち

大会前の注目ポイントとしては、各種目で世界記録保持者や五輪王者が顔を揃えた豪華なラインナップが話題でした。

男子短距離では、100m世界記録保持者のモーリス・グリーン(米国)が100m・200m・4×100mリレーの三冠に挑むとあって大きな注目を集めました。

400mでは「トラックの帝王」ことマイケル・ジョンソン(米国)が前人未到の世界陸上400m4連覇と、1988年にブッチ・レイノルズが樹立した43秒29の世界記録更新を目標に掲げ、31歳にして円熟の走りに期待がかかりました。

また女子短距離ではシドニー五輪の金メダル候補マリオン・ジョーンズ(米国)が複数種目制覇を狙い、男子中距離では1500mの世界記録保持者ヒシャム・エルゲルージ(モロッコ)がライバルを圧倒する走りを見せるのか注目されました。

地元スペインからは、前回アテネ大会の男子マラソン覇者アベル・アントンが連覇を狙い、スタジアムや沿道で大声援を受けました。

日本勢では、前年のバンコク・アジア大会女子マラソンで日本新記録を樹立した高橋尚子が注目されましたが、大会直前に故障で無念の欠場。代わりにエース格となった市橋有里(女子マラソン)や佐藤信之(男子マラソン)らが入賞・メダルを狙う存在として期待されました。こうしたスター選手たちのドラマや対決構図が大会前から大いに報じられ、世界中の陸上ファンの関心を集めていました。

世界記録・大会記録ラッシュの衝撃

セビリア大会では各種目で歴史的な記録が次々と生まれました。

中でも大会最大のハイライトは、男子400m決勝でのマイケル・ジョンソンの走りです。ジョンソンは決勝レースで序盤から力強く飛ばし、中盤以降は独走態勢に入ると最後までフォームを崩すことなく駆け抜けました。結果、43秒18の驚異的な世界新記録で優勝し、自身のもつ大会記録を更新するとともに前人未到の4連覇を達成したのです。

この43秒18は、それまで11年間破られていなかった世界記録を0秒11更新するもので、ジョンソンは200mに続き2種目の世界記録保持者となりました。

彼の400m世界記録はその後17年間にわたり破られず、2016年にようやく更新されるまで陸上史に燦然と輝き続けました。

短距離では他にも大記録が生まれています。男子100mではモーリス・グリーンが9秒80の大会新記録(当時)で優勝し、自身の持つ世界記録(9秒79)に迫る高速レースとなりました。

グリーンはさらに200mも制し、米国チームのアンカーとして4×100mリレー優勝にも貢献。短距離三冠の偉業を達成して大会のヒーローとなりました。

一方、女子100mではマリオン・ジョーンズが10秒70の大会新記録で金メダルに輝き、世界最速女王の座を不動のものにしました(※後年、ジョーンズの実績はドーピング違反により評価を覆されることになりますが、この大会当時は圧倒的な強さで観客を魅了しました)。

また女子200mは米国のインガー・ミラーが21秒77(年間最高記録)で優勝。ジョーンズは負傷の影響で200mを棄権しましたが、同僚ミラーが穴を埋める形で金メダルを獲得し、米国女子短距離の層の厚さを示しました。

中長距離でも記録とドラマが生まれました。男子1500mではヒシャム・エルゲルージが3分27秒65の大会新記録という高速レースで2連覇を果たしました。2位のノア・ヌゲニ(ケニア)も3分28秒台を記録しており、トップ2が従来の大会記録を大幅に更新する驚異的なレースでした。エルゲルージは世界記録(3分26秒00)に迫る勢いで走り、「史上最強の中距離ランナー」の名を不動にしています。

男子10000mでも名勝負が展開され、エチオピアの長距離王者ハイレ・ゲブレセラシエが27分57秒27で優勝。ケニアのポール・テルガトとのデッドヒートを1秒差で制し、2大会連続の金メダルをつかみました。

女子10000mではエチオピアのゲタ・ワミが30分24秒56の大会新記録(アフリカ新記録)で優勝し、2位のポーラ・ラドクリフ(英国)もイギリス新の30分27秒13、3位のテグラ・ロルーペ(ケニア)もケニア新の30分32秒03をマークするなど、史上まれに見る高速レースとなりました。この種目では日本の弘山晴美・高橋千恵美も自己ベストで健闘し後述のように入賞していますが、世界の壁の高さを示すハイレベルな争いでした。

フィールド種目でも歴史的出来事がいくつも起きました。男子棒高跳ではマキシム・タラソフ(ロシア)が6m02の大会新記録を樹立して優勝し、ブブカ不在の時代に新たな王者として名乗りを上げました。

また今大会から正式種目となった女子棒高跳では、アメリカのステーシー・ドラギラが4m60の世界タイ記録をマークして初代女王に輝きました。当時女子棒高跳の世界記録は4m60(エマ・ジョージ=豪州)で、ドラギラは大会でこの高さに成功。ウクライナのアンジェラ・バラコノワとの激戦を制し、記念すべき初開催種目に花を添えました。

女子ハンマー投もこの大会で初めて実施され、ルーマニアのミハエラ・メリンテが75m20の大会新で優勝。この種目ではサモア所属のリサ・ミシペカが銅メダルを獲得し、アメリカ領サモアに史上初の世界大会メダルをもたらす快挙となりました。

さらに地元スペイン勢にも大きな歓喜が訪れ、男子マラソンアベル・アントンが2時間13分36秒で金メダルを獲得し大会連覇を達成。

女子走幅跳ではキューバ出身で大会直前に帰化したニウルカ・モンタルボが7m06(スペイン新記録)を跳んで優勝し、開催国スペインにとって貴重な女子種目での金メダルとなりました。このようにセビリア大会は各種目で記録ラッシュとなり、観客は陸上競技の醍醐味を存分に味わう大会となりました。

日本代表の活躍(マラソンでのメダル獲得など)

日本代表は男子28名・女子18名の計46名が出場し、銀メダル1個・銅メダル1個を含む延べ7名が入賞(8位以内)する健闘を見せました。中でも大きな成果を上げたのは男女マラソンです。

女子マラソンでは市橋有里(当時21歳)が2時間27分02秒の力走で銀メダルを獲得しました。レースは序盤からスローペースで進み、終盤まで大集団の我慢比べとなります。38km付近で北朝鮮のジョン・ソンオク(鄭成玉)と市橋の一騎打ちとなり、残りわずか約1kmの41km地点手前でジョン選手がスパート。市橋も懸命に食らいつきましたが、最後は僅か3秒差届かずジョン選手が先着し、市橋は惜しくも世界一に届きませんでした。

それでも21歳の市橋が獲得した銀メダルは、日本人として世界陸上のトラック・種目別を通じ最年少でのメダルという快挙であり、現在もその記録は破られていません。また8位には小幡佳代子が入り、2名入賞の活躍となりました。

男子マラソンでも佐藤信之2時間14分07秒で銅メダルを獲得しています。佐藤はレース中盤の27km過ぎから先頭に立って果敢にペースを上げ、35km地点では後続に24秒もの大差をつける大逃げを打ちました。しかし地元の大声援を受け連覇を狙うアントンが39km付近で追いつき逆転、さらに40km過ぎにはイタリアのヴィンチェンツォ・モディカにもかわされ佐藤は3位に後退します。それでも最後まで粘り強い走りで食らいつき、なんとか3位表彰台を死守しました。佐藤のほかにも藤田敦史が6位、清水康次が7位に入賞しており、男子マラソンはトップ8に日本勢3人が入る層の厚さを見せました。

さらに女子10000mでも弘山晴美が31分26秒84で4位、高橋千恵美が31分27秒62で5位入賞と大健闘し、あと一歩でメダルに手が届くところまで迫りました。こうした日本長距離勢の活躍は、「マラソン日本」の存在感を世界に示すものとなり、翌年2000年シドニー五輪での高橋尚子の金メダルにもつながる大きな自信となりました。

大会の総括とその後への影響

1999年セビリア世界陸上は、記録面でもドラマ面でも語り草の多い大会となりました。

マイケル・ジョンソンの残した400m世界記録は約17年間破られず、陸上ファンの記憶に強烈に焼き付きました。モーリス・グリーンの短距離三冠達成は、世界最速を競う短距離王国アメリカの層の厚さを改めて印象付けました。地元スペインはアントンとモンタルボという二つの金メダルを獲得し、開催国として有終の美を飾っています。

一方で、後年明らかになったドーピング問題もこの大会の結果に影を落としました。

ジョンソンがアンカーを務めて優勝した男子4×400mリレーは、チームメンバーの薬物違反が発覚し約10年後に金メダル剥奪という事態となりました。また女子短距離で圧倒的強さを見せたマリオン・ジョーンズも、その栄光は後に全て失われています。こうした教訓は、陸上競技界におけるドーピング対策強化の流れを加速させる一因ともなりました。

競技面に目を向ければ、セビリア大会で初採用された女子棒高跳・女子ハンマー投の成功は、その後のオリンピックや世界大会で女性種目が拡充されていく流れにつながりました。ドラギラは翌2000年シドニー五輪でも金メダルを獲得し、女子棒高跳の第一人者として競技の発展に寄与しました。

またセビリアの暑さを考慮した大会運営の経験は、猛暑下での陸上大会開催マニュアル整備に生かされ、後年の大会でも選手の健康管理や日程調整に活かされています。何より、世界中から200以上の国が集ったこの大会は、陸上競技の真のグローバル化を象徴するものでもありました。北朝鮮のジョン・ソンオクが金メダルを持ち帰ったように、これまでメダルとは無縁だった国にも栄光がもたらされ、陸上の裾野が広がったことは歴史的意義と言えるでしょう。

セビリア大会で生まれた数々の名勝負・名場面は、今なお陸上ファンの語り草です。大会翌年のシドニー五輪や、その後の世界陸上(2001年エドモントン大会など)でも、この大会で活躍したスターたちが中心となって活躍を繰り広げました。1999年セビリアは20世紀最後の世界陸上として輝かしい記録とドラマを残し、新たな時代への橋渡しとなった大会でした。そして2025年現在に至るまで、その伝説は色あせることなく語り継がれています。