【1993年シュトゥットガルト】世界陸上競技選手権大会を振り返る

【1993年シュトゥットガルト】世界陸上競技選手権大会を振り返る

1993年8月、ドイツのシュトゥットガルト第4回世界陸上競技選手権大会が開催されました。大会期間は8月13日から22日までの10日間で、メイン会場はシュトゥットガルトのゴットリーブ・ダイムラー・シュタディオン(現メルセデス・ベンツ・アレーナ)でした。

大会には187の国・地域から合計1,689名もの選手が参加し、前回大会(1991年東京大会)よりも約20か国・172人増加するなど、陸上競技の世界的な広がりを示しました。観客動員も連日盛況で、特に夕方以降のセッションでは毎回5万人近い大観衆がスタンドを埋め尽くしたと言われています。

本稿では、当時の熱戦とドラマを、陸上ファンでない方にも楽しめるような形で振り返ってみたいと思います。

大会の概要と特徴

2年に1度への転換と新種目の追加

もともと世界選手権は4年周期で開催されていましたが、シュトゥットガルト大会以降はオリンピックの中間年となる奇数年ごと(2年に1回)に開催される方式に変更されました。これにより選手にとっては活躍の舞台が増え、ファンもオリンピックを待たずに世界トップレベルの戦いを頻繁に観られるようになりました。

また、この大会から女子三段跳が正式種目に加わり、全競技数は男子24種目・女子20種目の計44種目となりました。女子三段跳は当時まだ歴史の浅い種目でしたが、初代女王のアンナ・ビリュコワ(ロシア)が女子史上初となる15m超え(15m09)を記録し周囲を驚かせました。

賞金制度と地元色

今大会から上位入賞者への賞金授与が開始され、金メダリストには副賞として開催地にちなむ高級車メルセデス・ベンツが贈られるなど、プロスポーツ化の流れを感じさせる演出も話題となりました。

開催国ドイツの伝統ある都市での開催ということで、大会マスコットや開会式・閉会式でもドイツ文化が色濃く演出されました。特に地元シュトゥットガルト出身のスター選手であるハイケ・ドレクスラー(女子走幅跳)が健在で、10年前の初優勝(1983年ヘルシンキ大会)以来となる世界選手権金メダルを母国の観衆の前で獲得したシーンは大会のハイライトの一つでした。

記録ラッシュ!世界記録・大会記録が続出

シュトゥットガルト大会は、各種目で好記録が相次いだことでも知られます。とりわけ4つの種目で世界新記録が誕生し、大会前半から「高速トラック」との評判が広まりました。以下の表に当時樹立された主な世界記録をまとめます。

種目記録選手(国)
男子110mハードル12秒91コリン・ジャクソン(イギリス)
女子400mハードル52秒74サリー・ガネル(イギリス)
男子4×400mリレー2分54秒29アメリカ合衆国(アンカー:マイケル・ジョンソン)
女子三段跳15m09アンナ・ビリュコワ(ロシア)

ハードル種目

ジャクソンとガネルの2名はいずれもイギリス勢で、ハードル種目での世界最高更新となりました。

男子110mハードル決勝ではコリン・ジャクソンが完璧なレース運びで当時の世界タイ記録を0.01秒更新する12秒91をマークし金メダル。2位のトニー・ジャレット(イギリス)も13秒00の好タイムでしたが、同僚ジャクソンが悲願の金メダルと世界記録を手中に収めています。

一方、女子400mハードル決勝ではサリー・ガネル52秒74の世界新で優勝し、2位のサンドラ・ファーマー=パトリック(アメリカ)も52秒79と、従来の世界記録(52秒94)を上回る高速決着となりました。この劇的な一騎打ちでガネルはイギリス女性選手として初めて陸上トラック種目の世界記録保持者となり、大会後には男女それぞれジャクソンとガネルがIAAF年間最優秀選手賞を受賞しています。

男子4×400mリレー決勝

リレー種目では、男子4×400mリレー決勝アメリカチーム(アンドリュー・バルモン、クインシー・ワッツ、ブッチ・レイノルズ、マイケル・ジョンソン)2分54秒29の世界新記録を樹立して優勝しました。

当時2位のケニアに5秒以上の大差をつける圧勝で、現在でも史上屈指の高速タイムとして残っています。

男子4×100mリレー

男子4×100mリレーでもアメリカが37秒48の大会新記録で制し、短距離リレー2冠を達成しました(※世界記録にはわずか0.08秒届かず)。

また個人種目でも多くの大会記録(CR)が更新されています。たとえば男子400mではマイケル・ジョンソン(アメリカ)が43秒65の大会新記録で初優勝し、当時世界歴代3位の高速タイムに観衆も沸きました

女子3000mでも曲雲霞(チュー・ユンシア、中国)が8分28秒71の大会新記録で優勝しています。

ちなみに女子3000mはこの大会が世界選手権で最後の実施となり、次回1995年大会からは女子5000mが正式種目に置き換えられました。そのため、曲雲霞の8分28秒71は世界選手権記録として永久に残る記録にもなっています。

注目選手の活躍とドラマ

英国勢の躍進とベテランスプリンターの栄光

今大会はイギリス勢が大活躍した大会としても知られます。前述のジャクソンとガネルの世界記録に加え、男子100mでは33歳のリンフォード・クリスティ(イギリス)が円熟の走りを見せました。

クリスティはバルセロナ五輪金メダリストですが、このシュトゥットガルトでも強豪アメリカ勢を抑えて9秒87の好タイムで優勝し、自身初の世界選手権タイトルを獲得。9秒87はその年の世界最高記録となり、ヨーロッパ新記録でもありました。クリスティはこの功績により大会後、ガネルとともに欧州年間最優秀選手にも選出されています。

さらに男子200mではジョン・レジス(イギリス)が19秒94の英国新記録をマークして銀メダルを獲得し、金メダルのフランク・フレデリクス(ナミビア)も19秒85のアフリカ新記録という高速レースとなりました。3位には“陸上の王様”ことカール・ルイス(米国)が19秒99で入り、世界選手権通算10個目のメダルを手にしています

カール・ルイスはこの大会が最後の世界選手権出場となり、彼にとって貴重なラストメダルとなりました。

一方、女子短距離ではメリーヌ・オッティ(ジャマイカ)の悲願達成が語り草です。オッティは1980年代から「ブロンズ・コレクター」(銅メダルの女王)と揶揄されるほど主要大会で3位に甘んじることが多く、一度も世界大会の頂点に立ったことがありませんでした。

しかしこの大会の女子200mついに快挙を成し遂げ、21秒98で待望の金メダルを獲得します。13年越しで表彰台の中央に立ったオッティの姿に、多くのファンが感動しました。

さらにドラマチックだったのは女子100mです。優勝候補のオッティと、1992年五輪覇者のゲイル・ディバース(米国)がまさかの同タイムphoto判定にもつれ込みました。結果はディバースが10秒82で金、オッティも同じ10秒82ながら銀という紙一重の決着。

オッティにとってはまたも金に届かない悔しい結果でしたが、37歳(※翌年)の彼女は諦めずに現役を続行し、ついに手にした200m金メダルはその粘り強さを象徴する勲章となりました。

新星の台頭:米・エチオピア勢と「マ軍団」

アメリカ勢では、マイケル・ジョンソン400mとリレーで2冠に輝き、名実ともにスター選手の仲間入りを果たしました。400mでは前述の通り大会新記録で制し、4×400mリレーでは世界新のフィニッシュを自らアンカーで飾っています。ジョンソンはこの後、1995年大会で200mと400mの2種目制覇、さらに1996年アトランタ五輪での世界新記録樹立へとつながる黄金期を迎えていきます。

またゲイル・ディバース前述の100mに加え、得意の100mハードルも制し2冠を達成しました。彼女は数年前まで甲状腺疾患(バセドウ病)の治療による足の痺れで走ることすら危ぶまれた過去があり、そこから奇跡的に復活しての世界選手権2冠という劇的なストーリーは、多くの人々に勇気を与えました。

中長距離では、エチオピアの新鋭ハイレ・ゲブレセラシェ(当時20歳)が男子10000m27分46秒02をマークし世界大会初優勝。ケニアのモーゼス・タヌイとの死闘を0.5秒差で制したレースは「将来の長距離王者誕生」を強く印象付けました。

また男子5,000mではケニアの17歳、イスマイル・キルイシニア世界大会デビューで金メダルを攫う番狂わせが起こり、ゲブレセラシェはこの種目では銀に終わりました。こうした若手アフリカ勢の台頭により、長距離界は世代交代の様相を呈していきます。

しかし何と言っても、この大会で世界を最も驚かせたのは中国の女子長距離選手団でした。

当時無名だった馬俊仁コーチ率いる中国人選手たちが突如圧倒的な強さを発揮し、女子3000mでは国勢が表彰台を独占(1位: 曲雲霞〈チュー・ユンシア〉、2位: 張林麗、3位: 張麗栄)。さらに女子10000mでも王軍霞(ワン・ジュンシャ)鐘煥娣(ジョン・ホワンティ)が金銀メダルを独占し、まさに突風のような活躍を見せました。

王軍霞は10000mの終盤3000mを8分42秒という驚異的なラップで押し切り、2位に23秒もの大差をつけて優勝しています。この中国勢の突然の台頭には当時各国関係者も驚きを隠せませんでした。その勢いは大会後もしばらく続き、1993年9月の中国全国大会では王軍霞が女子10000mで29分31秒という前代未聞の世界新記録を樹立するなど、次々と世界記録を更新します。

もっとも、彼女たちのあまりに急激な記録向上にはドーピング疑惑もささやかれました。

事実、その後コーチの馬俊仁氏の下で複数の選手がエリスロポエチン(EPO)陽性となり2000年シドニー五輪代表から外されるスキャンダルが発覚し、1993年前後に打ち立てられた記録の数々も「クリーンではないのでは」と長らく疑念の目で見られることになってしまいました。

日本選手の活躍と話題

日本選手団にとって、今大会最大のハイライトは女子マラソンでした。

レース序盤から積極的に集団を引っ張った浅利純子は、30km付近でスパートをかけて単独先頭に立つと、そのまま独走態勢に持ち込みます。最後は2位に約1分の差をつける2時間30分03秒でフィニッシュし、見事に金メダルを獲得しました。浅利の優勝は日本女子選手として世界陸上初の金メダルであり、日本陸上界にとって記念碑的な快挙となりました。

さらにこの女子マラソンでは安部友恵2時間31分01秒銅メダルを獲得し、日本勢が同一種目で二人同時に表彰台に立つという快挙も達成しています。世界大会のマラソン種目で日本人が金メダル・銅メダルを同時獲得するのは史上初めての出来事で、日本のテレビや新聞でも大々的に報じられました。

当時から女子マラソンは日本のお家芸として注目されていましたが、この浅利・安部両選手の健闘により、その地位を一層不動のものとしました。

他の日本勢では、男子マラソンの打越忠夫が2時間14分台で5位入賞を果たしています。男子競歩やトラック種目でも善戦はしたものの、残念ながらメダルには手が届きませんでした。

とはいえ、日本が世界陸上で金メダルを獲得するのは1991年東京大会の男子マラソン(谷口浩美)以来2大会ぶり2個目であり、女子選手の金メダルとしては初になります。

この快挙は後の有森裕子(1996年五輪銀)、高橋尚子(2000年五輪金)らの活躍にも繋がる大きな励みとなり、日本の陸上界全体にも明るい話題を提供しました。

大会全体の印象とその後の影響

シュトゥットガルト大会は、前回1992年バルセロナ五輪の熱気を引き継ぎながら、新記録ラッシュと各国スターの活躍で大いに盛り上がりました。特にアメリカ合衆国は金メダル11個を獲得して国別成績で突出した強さを見せ(2位のロシアの金メダルはわずか3個)、冷戦後の新時代における陸上王国ぶりを印象付けました。

一方でヨーロッパ勢もイギリスやドイツを中心に健闘し、ケニアやエチオピアなどアフリカ勢も若手の台頭で存在感を増すなど、世界陸上の勢力図が大きく塗り替わり始めた大会でもありました。

競技レベルの向上とともに、新設された女子三段跳で早くも15m超の世界記録が出たことや、女子3000mがこの大会で見納めとなったことなど、陸上競技の種目や記録の移り変わりを象徴するエピソードも数多く生まれました。大会後には一部選手のドーピング疑惑が取り沙汰される陰の部分もあったものの、総じて本大会は「記録とドラマの宝庫」としてファンの記憶に刻まれています。

選手たちに贈られた真紅のメルセデス車は当時大きな話題となり、「世界一に輝けば高級車が手に入る」という夢のある演出は競技のプロ化時代を象徴する出来事でした。シュトゥットガルトの地で生まれた数々の名勝負・名場面は、その後の陸上界にも語り継がれ、後年の世界選手権やオリンピックで活躍する次世代のアスリートたちに大きな刺激を与えたことでしょう。