
1987年にイタリアのローマで開催された第2回世界陸上競技選手権大会(World Athletics Championships 1987)。10日間にわたる熱戦の中で、世界記録が誕生し、数々の大会新記録が更新されました。
カール・ルイスとベン・ジョンソンの100m決戦や、女子走高跳で生まれた“不滅”の世界新記録など、伝説的な名勝負も数多く語り継がれています。本記事では、大会の概要から注目の記録、スター選手たちの活躍、日本代表の成績まで、1987年ローマ大会の見どころを振り返ります。
- 大会史上初の世界記録更新:女子走高跳でステフカ・コスタディノワが2m09の世界新記録を樹立
- 100m世紀の対決:カール・ルイス vs ベン・ジョンソンの直接対決は世界中の注目を集めた伝説のレースに
- スター選手の活躍:ジャッキー・ジョイナー=カーシーの複数種目制覇、シルケ・メラー(グラディッシュ)の短距離2冠など名場面が続出
- 日本勢初の入賞:男子やり投げで溝口和洋が6位入賞し、世界陸上で日本選手として初の入賞を果たす快挙
大会概要:ローマが舞台の第2回世界陸上
第2回世界陸上競技選手権大会は1987年8月28日から9月6日まで、ローマのスタディオ・オリンピコを主会場に開催されました。前回1983年ヘルシンキ大会から4年、陸上界の頂点を決める大会として規模も拡大。今回は男子24種目・女子19種目の計43種目が実施され、女子10000mと女子10km競歩が新たに追加されました。参加国・地域は159にのぼり、約1,451人の選手が集結。10日間で延べ518,000人もの観客が競技場に詰めかけ、大いに盛り上がりました。
大会当時は冷戦下で東西対決が注目された時代でもあり、東ドイツやソビエト連邦といった東側諸国がメダル争いで存在感を発揮しました。実際、国別のメダル獲得数では東ドイツが金10・銀11・銅10の計31個でトップとなり、米国(計20個)やソ連(計25個)を凌ぐ成績を収めています。
東ドイツは特に女子短距離や投擲種目で強く、当時の科学的トレーニング(のちにドーピング問題も露見)の成果もあって圧倒的な強さを見せました。一方で開催国イタリアも男子長距離種目で金メダルを獲得するなど健闘し、スタジアムを大いに沸かせました。
世界記録と大会新記録のラッシュ
ローマ大会では、世界記録が2つ誕生し、大会新記録(大会記録)の更新も相次ぎました。中でも最大の話題は、女子走高跳で生まれた世界新記録です。ブルガリア代表のステフカ・コスタディノワが2m09を跳び、自身の持つ世界記録を更新。
この2m09は現在に至るまで破られていない“不滅の世界記録”として陸上史に刻まれています。ローマの青空に高々と舞い上がった彼女の跳躍は、スタンドの観衆を総立ちにし、大会のハイライトとなりました。
一方、男子100mでも当時の世界新記録が飛び出しています。決勝でカナダのベン・ジョンソンが9秒83の驚異的タイムをマークし、世界最高記録を更新しました。しかし、この記録は後にジョンソンのドーピング発覚によって公式には抹消される運命を辿ります(詳細は後述)。
そのため記録面では公式に残る世界新記録はコスタディノワの1件のみですが、ローマ大会の競技レベルの高さを示すものとして100m決勝のタイムも語り継がれています。
大会新記録(大会記録)は各種目で続出しました。男子走幅跳ではカール・ルイス(米国)が8m67の大会新記録で優勝。女子100m・200mではシルケ・グラディッシュ=メラー(東ドイツ)がそれぞれ10秒90、21秒74の大会新をマークして2冠に輝き、当時台頭し始めたフローレンス・グリフィス=ジョイナー(米国)との競り合いを制しました。
男子400mハードルでは伝説的名選手エドウィン・モーゼス(米国)が47秒46の大会新記録で優勝し、わずか0秒02差で同僚のダニー・ハリスを振り切る劇的勝利。さらに男子棒高跳ではセルゲイ・ブブカ(ソ連)が5m85の大会新で優勝し、自らの持つ世界記録更新こそならなかったものの貫禄を示しました。
このように各種目で高水準の記録が相次ぎ、ローマ大会は選手たちのパフォーマンスがピークに達した大会として記憶されています。
伝説の100m決戦:ルイス vs ジョンソンの光と影
1987年ローマ大会で最も注目を集めたのは、なんと言っても男子100mの決勝でした。
「ヘルシンキの三冠王」にして「ロサンゼルス五輪の四冠王」という実績を誇るアメリカのスーパースター、カール・ルイス。対するは当時100mで連勝街道を突き進んでいたカナダの新鋭、ベン・ジョンソン。短距離界の王者と挑戦者による直接対決は「世紀の一戦」として大会前から大きな話題となり、世界中の注目がローマに集まりました。
決勝レースはスタートから飛び出したベン・ジョンソンが誰よりも速く加速し、そのまま他を寄せ付けない圧巻の走りで9秒83の世界新記録(当時)でゴール。後塵を拝したルイスも9秒93の好タイムでしたが及ばず、ジョンソンが圧勝という結末でした。
スタジアムはその驚異的記録に沸き、「ジョンソンがルイスを破った」ニュースは大会最大のトピックとして世界中を駆け巡ります。実際、このレースは「1987年の世界スポーツ十大ニュース」の第1位にも選ばれ、ローマ大会を象徴する名場面となりました。
しかし、この栄光は長く続きませんでした。
翌1988年のソウル五輪でジョンソンのドーピング違反が発覚すると、彼は五輪金メダルを剥奪されただけでなく、ローマ大会の記録も遡及的に抹消される事態となったのです。世界を驚かせた9秒83は公式記録から消え去り、後には汚点と失望だけが残りました。皮肉にもこの出来事により、ローマ大会の100m決勝は「伝説のレース」として語り継がれると同時に、スポーツにおけるフェアネスの重要性を改めて世に示す教訓ともなったのです。
輝いたスター選手たちと名勝負の数々
ローマ大会では、上述の100m以外にも各種目で世界トップクラスのスター選手たちが躍動し、ドラマチックな名勝負が繰り広げられました。その中から、特に記憶に残る場面をいくつか振り返ってみましょう。
● ジャッキー・ジョイナー=カーシーの大活躍: アメリカのジャッキー・ジョイナー=カーシーはローマ大会で女子走幅跳と七種競技の2種目制覇という快挙を達成しました。走幅跳では7m36の大会新記録で金メダルを獲得し、同じ東ドイツの名選手ハイケ・ドレクスラーとの競技を制しています。さらに七種競技では7,128点というこちらも大会新記録で優勝し、陸上女子のオールラウンダーとしての実力をまざまざと見せつけました。ジョイナー=カーシーは翌1988年ソウル五輪でも世界新記録を樹立しますが、その前哨戦とも言えるローマでの圧勝劇は、彼女を一躍女性アスリートの象徴的存在へと押し上げたのです。
● 東ドイツ短距離女子の圧倒: 東ドイツ勢はローマ大会で女子短距離種目を席巻しました。シルケ・グラディッシュ=メラー(旧姓グラディッシュ)は女子100mで10秒90、200mで21秒74といういずれも大会新のタイムをマークし短距離2冠を達成。100mでは同僚のハイケ・ドレクスラーが2位(11秒00)、200mでもアメリカの新星フローレンス・グリフィス=ジョイナー(フロジョ)との競り合いを制するなど、東ドイツ女子スプリンターの層の厚さが際立ちました。リレー種目でも、女子4×100mリレーはアメリカチーム(フロジョらを擁する)が41秒58の大会新で金メダルを取りましたが、女子4×400mリレーでは東ドイツが3分18秒63の大会新で優勝し、最後まで東西の意地がぶつかり合う展開となりました。
● 男子ハイジャンプの死闘: 男子走高跳では、稀に見るハイレベルな争いが展開されました。スウェーデンのパトリック・ショーベリを筆頭に、世界の強豪たちが次々とバーをクリアし、実に7人もの選手が2m32以上を跳ぶ激戦に。そしてメダルを獲得するには2m38が必要という超ハイレベルな結末となり、ショーベリが2m38を一発で成功させて金メダルを勝ち取りました。同記録でソ連のイゴール・パクリンとゲンナジー・アブデエンコも並びましたが(最終順位は試技数の差で決定)、表彰台に上がった3人全員が2m38の大会新記録という壮絶な戦いでした。前年に世界記録(2m42)を樹立していたショーベリが意地を見せた形ですが、このローマ大会の走高跳は史上最高レベルとの呼び声も高く、観客を大いに熱狂させた名勝負です。
● 地元イタリアに金メダル: 開催国イタリアのファンを熱狂させたのが、男子3000m障害でのフランチェスコ・パネッタの快走でした。パネッタはラストスパートで競り勝ち、8分08秒57の大会新記録で金メダルを獲得。地元ローマの観衆は総立ちとなり、スタジアムには歓喜の大歓声が響き渡りました。またパネッタは10000mでも銀メダルを獲得しており、中長距離で2つのメダルをもたらす大健闘。長距離では他にも、男子5000mでモロッコのサイード・アウイトが13分26秒44で優勝し、女子10000mではノルウェーのイングリッド・クリスチャンセンが31分05秒85で初代女王に輝くなど、各種目でドラマが生まれました。
● マラソン・競歩のヒロイン/ヒーロー: 過酷なロード種目でも見どころがありました。女子マラソンではポルトガルの名ランナー、ロザ・モタが2時間25分17秒の大会新記録で圧勝し、世界的なマラソン女王としての地位を不動のものにしました。男子マラソンではケニアのダグラス・ワキウリが2時間11分48秒で金メダルを獲得し、ケニアに世界陸上初のマラソン金メダルをもたらしています。競歩では新設の女子10km競歩でソ連のイリナ・ストラホワが優勝するなど、長距離種目でも各国のスター選手が活躍しました。
日本代表の成績とエピソード
日本からも29名(男子22名・女子7名)の選手団がローマに派遣されました。残念ながらメダル獲得には至りませんでしたが、いくつか明るい話題もありました。
中でも特筆すべきは、男子やり投げの溝口和洋選手が6位入賞を果たしたことです。世界選手権の入賞(8位以内)は日本陸上競技界にとって大会史上初の快挙であり、前回1983年ヘルシンキ大会で入賞者ゼロに終わっていた日本チームにとって大きな自信となりました。溝口選手は決勝で80m24を投げ(予選では全体トップの80m58を記録)、東欧勢が強い投てき種目において堂々の健闘を見せています。
他にも、日本勢では男子マラソンに西政幸選手(22位)や大須田祐一郎選手(26位)らが完走し、女子マラソンでも山下美幸選手が10位と健闘しました。当時の日本は世界のトップレベルと比べると見劣りすると言われた時代でしたが、それでもローマの地で示した粘り強い戦いは、後の1991年東京大会での谷口浩美選手の金メダルなどにつながる第一歩だったと言えるでしょう。
おわりに:ローマ大会が残したもの
1987年ローマ世界陸上は、世界記録と名勝負の宝庫として今も語り継がれる大会です。コスタディノワの2m09ジャンプやルイスvsジョンソンの劇的100mなど、数々のハイライトシーンは陸上ファンの記憶に焼き付き、陸上競技の魅力を世界に示しました。
また、ドーピングによる記録抹消という負の歴史も含め、スポーツの明暗両面を象徴する大会でもありました。ローマ大会で躍動したスターたちのその後の活躍(1988年ソウル五輪や1991年東京世界陸上での新たな伝説)を含め、1987年の戦いは陸上競技の歴史に深い足跡を残しています。
当時を振り返ることで見えてくるのは、記録への挑戦やライバルとの激闘、そして勝者の栄光と挫折のドラマです。1987年ローマ世界陸上は、そうしたスポーツの醍醐味が凝縮された大会でした。陸上ファンのみならず、多くの人々を魅了したこの大会の物語は、これからも色褪せることなく語り継がれていくことでしょう。