
1983年8月7日から14日にかけて、フィンランドのヘルシンキにあるヘルシンキ・オリンピックスタジアムで史上初の世界陸上競技選手権大会(第1回大会)が開催されました。この大会には世界中から153の国と地域が参加し、約1,350人もの選手が集結しました。
実施種目数は41種目(男子24種目・女子17種目)にのぼり、まさに陸上競技のオリンピックとも言える規模で行われました。会場となったヘルシンキ・オリンピックスタジアムは1952年のヘルシンキ五輪も開催された伝統ある競技場で、連日多くの観衆が世界初の陸上“世界一決定戦”を見届けようと詰めかけました。
世界選手権誕生の背景と大会の意義
それまで陸上競技の世界一を決める大会といえばオリンピックしか存在しませんでした。しかし、オリンピックは他の競技も含めた巨大イベントであるがゆえに、政治問題やボイコットによる影響を大きく受けていました。
実際、1968年メキシコ大会の紛争や1972年ミュンヘン大会での事件、1976年モントリオール大会のアフリカ諸国ボイコット、1980年モスクワ大会の米国主導ボイコット、そして翌1984年ロサンゼルス大会の東側諸国ボイコットと、直前の15年間でオリンピックは政治的混乱に翻弄されていたのです。
こうした状況下で「純粋に陸上競技だけの世界大会を」という声が高まり、1978年のIAAF(国際陸上競技連盟)理事会において満場一致で世界選手権の新設が決定されました。そして記念すべき第1回大会を1983年にフィンランド・ヘルシンキで開催することが正式に決まったのです。
ヘルシンキ大会は、冷戦下でも真の世界一を決める場として大きな意義を持ちました。実際にこの大会には当時のIAAF加盟170か国中158か国もの代表が集まり、史上最多の国々が参加するスポーツイベントとなりました。
フィンランドは西側民主主義国でありながらNATO非加盟でソ連とも国境を接するという微妙な立地にあり、米ソ両陣営から見ても中立的でバランスの取れた開催地だったのです。その結果、東西冷戦の影響下でもソ連とアメリカを含む世界中のトップアスリートが一堂に会し、純粋な陸上競技の実力を競い合う初めての機会が実現しました。
オリンピックの前年にあたる1983年にこの大会が行われたこともあり、「ロサンゼルス五輪では実現し得ない夢の対決がヘルシンキで実現した」と当時話題になりました。陸上競技ファンにとって、この第1回世界陸上は歴史的な幕開けとなったのです。
輝いたスター選手たちと世界新記録
ヘルシンキのトラックとフィールドでは、各種目で世界トップクラスのアスリートたちが次々に実力を発揮しました。男子短距離では、アメリカ合衆国のカール・ルイスが大会の主役の一人となりました。ルイスは男子100m走と走幅跳の2冠を達成し、さらに男子4×100mリレーではアンカー(第四走者)を務めて37秒86の世界新記録樹立に大きく貢献しました。リレーでは同じ米国チームのカルヴィン・スミス(200m優勝者)らとバトンをつなぎ、この大会で唯一の男子世界新記録を打ち立てています。
ルイスは合計3個の金メダルを獲得し、“陸上のスーパースター”としてその名を世界に知らしめました。
一方、女子短距離界でも東ドイツのマリタ・コッホが大活躍しました。コッホは女子200mと4×100mリレー、4×400mリレーの3種目で金メダルを獲得し、さらに女子100mでも銀メダルに輝きます。金メダル3個・銀メダル1個という成績は大会最多のメダル獲得数であり、東ドイツチームの躍進を象徴するものとなりました。とりわけ4×400mリレーではアンカーを務め、同僚たちと共に表彰台の中央に立ったコッホの姿が印象的でした。
また、中距離種目では当時32歳のヤルミラ・クラトフビロバ(チェコスロバキア)が圧巻の走りを見せました。クラトフビロバは女子400mと800mの二種目制覇という離れ業を演じ、400mでは47秒99の世界新記録を樹立しています。女子400mで48秒の壁を破ったのは史上初であり、その47.99秒という記録は大会当時の世界記録となりました。さらに彼女は800mも1分54秒台という驚異的なタイムで制し、スプリントから中距離までまたがる才能を世界に示しました。
そして女子中長距離ではアメリカのメアリー・デッカー(後のスレイニー)が“ダブル・デッカー”と呼ばれる快挙を達成します。デッカーは女子1500mと3000mの両種目で金メダルを獲得し、まさにキャリア最高のパフォーマンスを発揮しました。先に8月10日の3000mで優勝すると、その4日後の1500mでも他選手を振り切ってゴールし、4日間で二冠という偉業を成し遂げたのです。この活躍によりデッカーは米国のスポーツ誌によって1983年の「女性最優秀選手」に選ばれるなど、一躍アメリカ合衆国のヒロインとなりました。
フィールド種目にも新星が現れました。ソ連(現ウクライナ)代表のセルゲイ・ブブカは、当時まだ19歳という若さで男子棒高跳びに優勝しています。ブブカはそれまで無名に近い存在でしたが、ヘルシンキ大会で5m70の記録を跳んで金メダルを獲得し、一躍その名を轟かせました。この優勝はブブカにとって6大会連続世界選手権制覇の第一歩となり、以降彼は世界記録を35回も更新する伝説的な存在へと成長していきます。まさに1983年ヘルシンキは、新たなスターの誕生の瞬間でもあったのです。
各競技で生まれたドラマチックな名場面
世界一を懸けた戦いの中で、生涯語り継がれるようなドラマチックな名場面も数多く生まれました。その象徴とも言えるのが、地元フィンランドの観衆を熱狂させた女子やり投げ決勝です。
フィンランド代表のティーナ・リッラックは、最終投擲までメダル圏外という苦しい展開でした。しかし地元の大声援を背に迎えた最後の投てきで、リッラックは渾身の一投を放ちます。やりは美しい弧を描いて70m82をマークし、この一投で逆転の金メダルが確定しました。
銀メダルに終わったイギリスの名手ファティマ・ホイットブレッドは、逆転を許して思わず悔し涙を流したほどでした。勝負を決めた瞬間、リッラックは歓喜に満ちてトラックを駆け出し、スタンドのフィンランド観客も総立ちで熱狂的に彼女の金メダルを祝福しました。開催国フィンランドに唯一もたらされた金メダルでもあり、この劇的な逆転劇は今なお語り草となっています。
他にも数々の名勝負がファンの記憶に刻まれました。
女子1500m決勝では前述のメアリー・デッカーがソ連勢との接戦を制したシーンが印象的です。デッカーは残り100mでソ連のザイツェワ選手らの猛追を振り切り、スタジアム中が沸き立つ中で真っ先にフィニッシュテープを切りました。冷戦下の構図そのままに米国vsソ連の対決となったこのレースで、アメリカのデッカーが勝利したことは観衆に大きな感動を与えました。「デッカー・ダブル」と称賛された二冠達成の瞬間を目にし、スタンドでは星条旗を振って歓喜するファンの姿も見られました。
さらに男子4×100mリレー決勝では、カール・ルイス率いるアメリカチームが世界新記録で優勝テープを切った場面が壮観でした。最終走者ルイスがトップでゴールした瞬間、電光掲示板に「37.86」の文字が輝くと会場から大歓声が起こりました。チームの4人は肩を組んでガッツポーズを見せ、世界一と世界新の喜びを分かち合いました。その姿は翌日の新聞各紙の一面を飾り、世界中に「陸上王国アメリカ」の強さを印象付けました。
日本人選手の活躍とエピソード
当時の日本からも男子16名・女子6名の計22名の代表選手団がヘルシンキに派遣されました。残念ながら第1回大会で日本人選手の入賞(※入賞=8位以内入線)は一人もおらず、メダル獲得には至りませんでした。
当時の日本陸上界は世界のトップと比べると力の差があり、特に1980年代前半は「メダルは遠く予選突破も難しい」時代でした。それでも、世界の檜舞台で日本人選手たちは懸命に健闘し、多くの経験を積んでいます。
例えば男子マラソンでは西村隆弘選手が2時間18分台で完走(35位)するなど健闘しましたし、男子棒高跳では日本勢も出場選手全員が決勝進出(※悪天候のため予選途中で全員決勝進出措置)というエピソードもありました。
第1回大会での悔しい結果は、その後の日本陸上界の強化に火を付け、1987年ローマ大会での初メダルや1991年東京大会での金メダル獲得へとつながっていきます。世界の壁に挑んだ22人の挑戦は、後に続く日本選手たちへの貴重な財産となりました。
おわりに:伝説の始まりとなったヘルシンキ大会
1983年ヘルシンキで幕を開けた第1回世界陸上競技選手権大会は、陸上競技史に新たな1ページを刻みました。東西の壁を越えて実現した真の世界一決定戦は、多くのドラマと名勝負を生み出し、観客を魅了しました。
大会最多の10個の金メダルを獲得した東ドイツや、最多24個のメダルを獲得したアメリカ合衆国をはじめ、延べ25か国がメダルを分け合ったこともこの大会の特徴でした。
その後、世界陸上は4年に一度の開催から始まり、1991年以降は隔年開催へと発展していきますが、初開催となったヘルシンキの熱気と感動は今なお色褪せません。五輪とは異なる純粋な陸上の祭典として誕生した1983年ヘルシンキ大会――そこでは陸上競技の新時代を告げる数々の伝説が生まれ、人々に深い感動を与えました。陸上ファンならずとも楽しめるスポーツのドラマが詰まったこの大会は、まさに陸上世界選手権の原点として語り継がれていくことでしょう。