陸上界に彗星のごとく現れ、長らく日本人が切望してきた10秒の壁を打ち破った桐生祥秀選手。
その華々しい活躍の陰で、怪我や病気、そして大きなプレッシャーに苦しみながらも、彼は幾度となく復活を遂げてきました。本記事では、最新の活躍から過去の栄光、そして未来への展望まで、桐生祥秀選手の「復活」の物語を深く掘り下げていきます。
桐生祥秀の復活劇:5年ぶり日本選手権優勝と9秒99の衝撃
桐生祥秀はなぜ「復活」したと言えるのか?
桐生祥秀選手が「復活」と称される理由は、彼のキャリアの歩みに深く関係しています。
2017年に日本人初の9秒台(9秒98)を達成し、一躍日本のスプリンターの象徴となりました。しかしその後は、怪我や難病との闘い、そしてライバルたちの台頭により、なかなか自己ベストを更新できない時期が続きました。
特に2021年の東京オリンピックでは個人種目での出場を逃し、リレーでも失格という悔しい経験をしました。こうした苦境を乗り越え、再びトップレベルの成績を出せるようになったことから、彼の好調ぶりは「復活」と表現されています。
2025年日本選手権での5年ぶり優勝と、その時の心境
2025年7月、東京の世界選手権と同じ国立競技場で開催された日本選手権の男子100メートル決勝で、桐生祥秀選手は10秒23のタイムをマークし、見事5年ぶり3回目の優勝を果たしました。
レース直後、彼は感情を爆発させるように雄叫びを上げ、中継のインタビューでは感極まって涙を流しました。
彼は「勝ててうれしい」「中学から陸上を始めて、初めて喜んで涙を流せた」と語り、これまでの悔し涙ではなく、心からの喜びであることを明かしました。この優勝は、30歳を目前に控えたベテランとしての意地と、再び世界の舞台を目指す強い決意の表れでした。
8年ぶりの9秒台(9秒99)が持つ意味とは?
日本選手権での優勝から約1ヶ月後、2025年8月3日に開催された富士北麓ワールドトライアルで、桐生祥秀選手は追い風1.5メートルの好条件下で9秒99を叩き出しました。
2017年の日本インカレで日本人初の9秒台を達成して以来、実に8年ぶりとなる快挙です。この記録は、彼が単に「優勝」するだけでなく、再び「記録」を追求するレベルまでコンディションを戻したことを証明しました。
この9秒99というタイムは、東京世界選手権の参加標準記録(10秒00)を突破するものであり、代表入りを確実なものにしました。この記録は、年齢を重ねてもなお進化できることを示す、彼の陸上人生における新たな金字塔と言えるでしょう。
桐生祥秀選手の基本プロフィールとキャリアを振り返る
桐生祥秀選手の年齢、身長、所属、自己ベストなどの基本情報
桐生祥秀選手は、1995年12月15日生まれの29歳です(2025年現在)。
滋賀県彦根市出身で、身長は175cm、体重は70kgです。
現在の所属は日本生命で、マネージメントはアミューズが担当しています。彼の自己ベストは、100mが9秒98(2017年)、200mが20秒39(2019年)、60mが6秒53(2024年)です。
小学生から高校時代、陸上人生の原点
桐生祥秀選手は、小学生時代はゴールキーパーとしてサッカーをしており、陸上競技を始めたのは彦根市立南中学校に進学してからです。
中学時代は腰痛や肉離れに苦しみながらも、200mで中学歴代6位の記録を残すなど、その才能の片鱗を見せました。京都市の洛南高校に進学後は、ミニハードルを中心としたトレーニングで才能が開花。
2012年にはぎふ清流国体100mで10秒21のユース世界最高記録を樹立し、翌2013年の織田記念では10秒01を記録し、高校生ながら日本歴代2位の快挙を成し遂げました。
日本選手権初優勝と世界ジュニアでのメダル獲得
東洋大学に進学した2014年、桐生祥秀選手は日本選手権男子100mで初優勝を飾りました。
同年には世界ジュニア選手権に出場し、100mで銅メダル、400mリレーで銀メダルを獲得しました。特に100mではレース中に両膝の裏側をつりながらも3位を死守し、日本人初のメダルを獲得しました。この経験は、彼のタフネスを象徴する出来事として語り継がれています。
日本人初の9秒台(9秒98)達成の瞬間
2017年9月9日、福井運動公園陸上競技場で行われた日本インカレ男子100m決勝で、桐生祥秀選手は追い風1.8メートルの条件下で9秒98を記録しました。
これは伊東浩司さんの持つ日本記録10秒00を19年ぶりに更新する、歴史的な快挙でした。この偉業は、日本陸上界における長年の夢であった10秒の壁を、初めて日本人の力で打ち破った瞬間として、今も多くの人々の記憶に残っています。
2017年以降の苦悩とスランプ脱出の秘訣
9秒台達成後のプレッシャーと伸び悩みの時期
9秒台を達成した後、桐生祥秀選手は大きなプレッシャーと向き合うことになりました。
メディアからは「常に9秒台を期待される」状況となり、タイムが出ない時期には「スランプ」と報じられることもありました。彼は「出場する全ての大会で9秒台を狙ってはいない」と語る一方で、周囲との「温度差」に苦しんだ時期があったことを明かしています。
この時期、彼は自己ベストを更新できない日々が続きましたが、常に「どうやったら速く走れるか」という実験を繰り返していました。
潰瘍性大腸炎という難病との闘い
2022年、桐生祥秀選手は自身のYouTubeチャンネルで、大学2年生の時に潰瘍性大腸炎を発症していたことを告白しました。この難病が、長年にわたる体調不良や練習ができない日々の一因であったことを明かしました。
彼はこの病気と向き合いながら、記録へのプレッシャーとも対峙し続けました。2022年シーズンは休養に充てる決断をしましたが、翌年には活動を再開。
「陸上を始めてから一番しんどい」と語るほどの苦境を乗り越え、再び走り始めたのです。
「スランプはない、実験の連続だ」という独自の考え方
桐生祥秀選手は、タイムが伸びない時期を「スランプ」とは考えていませんでした。
彼は「今の練習だと、この記録なんだな」と客観的に自分を見つめ、うまくいかない時期を「実験」の連続だと捉えていました。
このポジティブな思考が、彼を苦境から救い、再びトップレベルの舞台に押し上げました。成功の理由を自分で分析し、次につなげる「再現性」を追求する姿勢は、ビジネスパーソンにとっても学ぶべき教訓と言えるでしょう。
復活を支えた家族(妻・子供)の存在とモチベーションの変化
2020年に結婚し、2021年には長男が誕生したことも、桐生祥秀選手の復活に大きな影響を与えました。結婚や子供の存在は、彼にとって陸上競技を続ける上で、新たなモチベーションとなりました。
家族の存在は、記録へのプレッシャーから彼を解放し、競技への取り組み方を変えるきっかけにもなったのです。家族の支えがあったからこそ、彼は病気やスランプと向き合い、再び世界の舞台を目指すことができました。
桐生祥秀の走りの特徴と進化
高校時代の力強い走りから、大学・社会人での変化
高校時代、桐生祥秀選手の走りは「ゴムまりがはねるような」パワフルさが特徴でした。強く地面を叩き、ダイナミックな走りで加速していくスタイルです。
しかし、大学に進学してからは、故障を繰り返した経験から、その走りは変化していきました。パワフルさをスタートダッシュに生かしつつ、トップスピードに乗ってからは減速を最小限に抑える「技術性の高い走り」へと移行しました。
日本伝統の走法「ナンバ」からヒントを得た「すり足走法」とは?
桐生祥秀選手が実践する走法は、伊東浩司さんや末續慎吾さんといった、東海大学出身のスプリンターに受け継がれてきた「すり足走法」です。
この走法は、江戸時代の飛脚の走りや、手足を左右同時に出す「ナンバ」にヒントを得たもので、体の重心の上下動を抑え、前方への移動に特化させた無駄のない動きを追究するものです。
土江寛裕コーチの指導のもと、桐生祥秀選手はこの走法を磨き上げ、怪我のリスクを減らしつつ、安定したスピードを維持できるようになりました。
進化するスパイク技術と走り方の関係性
陸上競技におけるスパイクは、選手の走りに大きな影響を与えます。
桐生祥秀選手も、自身の走り方に合わせてスパイクの選択や調整を行ってきました。近年のスパイクは、反発力が非常に高く、より効率的に地面からの力を得られるようになっています。
この技術の進化は、桐生祥秀選手の「すり足走法」のような、効率的な重心移動を重視する走りと相性が良く、記録更新の一助となっていると考えられます。
桐生祥秀:復活の軌跡
幾多の困難を乗り越え、再び頂点へ。日本のスプリンターの物語をデータで紐解く。
復活の狼煙:2025年の衝撃
5年ぶり日本一
10.23秒
2025年日本選手権で、怪我や不調を乗り越え、再び日本の頂点に立った。その涙は、苦悩の日々を物語っていた。
8年ぶり9秒台
9.99秒
優勝から1ヶ月後、世界陸上の標準記録を突破。完全復活を世界に証明した歴史的な一走となった。
100mベストタイムの軌跡
2017年の9.98秒をピークに一時は記録が低迷。しかし、2023年から再び上昇気流に乗り、2025年に見事な復活を遂げた。
栄光への道程:キャリア・タイムライン
2013年:衝撃の10秒01
洛南高校3年時、織田記念で日本歴代2位(当時)を記録。17歳の怪物の出現に日本中が沸いた。
2016年:リオ五輪 銀メダル
4×100mリレーの3走として出場。日本チームの歴史的な銀メダル獲得に大きく貢献した。
2017年:日本人初の9秒台
日本インカレで9秒98を樹立。長年の夢だった「10秒の壁」を打ち破る歴史的快挙を成し遂げた。
2022年:試練の時
大学時代から抱えていた難病「潰瘍性大腸炎」を公表。シーズンを休養に充て、心身の回復に努めた。
走りの進化:パワーから技術へ
高校時代
パワフルな走り
地面を強く蹴る
ダイナミックな加速
現在
すり足走法
重心のブレを抑える
効率的な技術走
故障の経験を経て、体を効率的に使う「すり足走法」へ移行。これが復活の大きな鍵となった。
桐生祥秀 by Numbers
自己ベスト
100m
9.98秒
200m
20.39秒
60m (室内)
6.53秒
主な国際大会リレーメダル
東京世界陸上への展望とパリ五輪での活躍
2025年日本選手権優勝が意味する、東京世界陸上代表入りの可能性
2025年の日本選手権で優勝し、さらに9秒99の好記録で東京世界陸上の参加標準記録を突破した桐生祥秀選手は、個人種目での代表入りが確実となりました。
2017年の9秒98達成時以来となる、自国開催の世界選手権で再び世界の強豪たちと渡り合う姿が期待されています。彼にとって、東京世界陸上は、2021年の東京オリンピックで味わった悔しさを晴らす、特別な舞台となるでしょう。
ライバルたちとの関係性:山縣亮太選手、サニブラウン選手、小池祐貴選手
桐生祥秀選手の陸上人生は、常にライバルたちとの競争の歴史でもありました。
高校時代から鎬を削ってきた山縣亮太さん、日本人初の9秒台を期待され続けてきたサニブラウン・アブデル・ハキームさん、そして日本選手権の舞台で何度も競い合ってきた小池祐貴さんなど、多くの強敵の存在が彼の成長を促してきました。
桐生祥秀選手は「一番のライバルはやっぱり、3歳年上で、勝ったり負けたりの中で互いに成長してきた山縣(亮太)さんです」と語っており、互いを高め合う関係性が彼のキャリアを豊かにしてきました。
パリ五輪でのリレーメンバーとしての役割とメダルの可能性
2024年のパリ五輪では、男子400mリレーの代表として出場した桐生祥秀選手。
彼は3走のスペシャリストとして、チームの銀メダル獲得に貢献した2016年リオデジャネイロオリンピックや、銅メダルを獲得した世界選手権の経験を活かし、チームを牽引しました。
決勝では5位に終わったものの、その走りは「さすがの走り」と評価され、特にサニブラウン・ハキームさんからのバトンパスは滑らかに行われました。
彼は「リレーの3走は桐生だと、いろんな人に100%思ってもらえるようにしたい」と語っており、今後もリレーでの活躍が期待されます。
よくある質問:桐生祥秀選手についてもっと知りたい!
桐生祥秀選手の現在の年齢は?
桐生祥秀選手は1995年12月15日生まれなので、2025年現在、29歳です。
桐生祥秀選手の出身校(中学・高校・大学)は?
桐生祥秀選手は、中学校は彦根市立南中学校、高校は洛南高校、大学は東洋大学法学部企業法学科を卒業しています。
桐生祥秀選手の現在の所属チームは?
桐生祥秀選手は現在、日本生命に所属しています。
桐生祥秀選手が患っている難病とは?
桐生祥秀選手は、大学2年生の時に「潰瘍性大腸炎」という難病を発症したことを公表しています。