【2007年大阪】猛暑の世界陸上-記録を超えたドラマと日本勢の奮闘

はじめに:16年ぶりの日本開催

2007年8月25日から9月2日まで、大阪市の長居スタジアム第11回世界陸上競技選手権大会(IAAF世界陸上2007大阪大会)が開催されました。1991年東京大会以来16年ぶりの日本開催となった今大会には約200の国と地域から約1,800名を超える選手が集結し、翌年の北京五輪の前哨戦という意味合いも持つ大舞台となりました。

しかし開催時期は真夏、しかも「日本一暑い」と言われる大阪の残暑とあって、かつてない猛暑との戦いの大会として記憶されています。

猛暑との戦いと記録への影響

大阪特有の酷暑への対策として、運営側はメインスタジアムやマラソンコースにドライミスト(冷却霧)を噴射し、マラソンのスタート時刻を朝7時に繰り上げるなどの工夫を行いました。それでも暑さと湿度の影響は大きく、脱水症状による痙攣や競技中の体調不良に見舞われる選手が続出しました。

実際、競歩・マラソンなど長距離種目では途中棄権者が多数発生し、救護を受ける選手も出ています。炎天下で行われた男子マラソンでは、85人中28人もの選手が完走できなかったとの報道もありました。過酷な条件のため大会を通じて世界新記録は一つも更新されず、トップ選手でも本来のパフォーマンスを発揮しきれない場面が見られました。しかし、その極限状況だからこそ生まれたドラマも数多く、記録に残る数字以上に記憶に残る大会となりました。

日本選手の奮闘とメダルへの期待

地元開催となった日本チームは大きな期待を背負いました。大会前に日本陸連が「メダル5個」を目標に掲げ、メディアも有力選手たちの活躍に熱い視線を注ぎました。

結果的に日本勢のメダルは女子マラソンの銅メダル1個にとどまり、入賞(8位以内)も6種目と、直前の過去2大会を下回る成績でした。唯一のメダルとなったのは女子マラソン土佐礼子選手です。猛暑の中で行われた女子マラソンで土佐選手は粘り強い走りを見せ、2時間30分55秒で3位に入賞。ゴール直後には力尽きて倒れこむほどの激走で、地元大阪の観衆に大きな感動を与えました。

そのほか男子マラソンでは尾方剛選手が5位入賞し、日本男子3選手が揃って入賞したことで団体戦のマラソンワールドカップでは日本男子チームが見事に優勝を飾っています。

また大会最終日、男子4×100mリレー決勝では塚原直貴・末續慎吾・高平慎士・朝原宣治日本チームが38秒03の日本新記録を樹立し5位入賞。惜しくもメダルには届かなかったものの、「朝原選手(当時35歳)のラストラン」としてスタンドの観衆を大いに沸かせる名シーンとなりました。

期待が高かった男子400mハードル為末大は予選落ち、男子ハンマー投室伏広治選手は6位入賞とメダルに届かず悔しい結果でしたが、日本選手たちは厳しい条件下で最後まで諦めない戦いを見せ、会場を埋めたファンから大きな拍手が送られました。

世界のトップアスリートが見せたドラマ

一方、世界の舞台では各国のスーパースターたちが圧巻のパフォーマンスを披露しました。

短距離界では米国のタイソン・ゲイ100m、200m、4×100mリレーの三冠を達成し、一大会で3つの金メダルを獲得する離れ業を達成。200mでは19秒76の大会新記録(当時)も樹立し、猛暑をものともせずスプリント王者の存在感を示しました。

女子ではアリソン・フェリックス(米国)が200mとリレー2種目の計3冠に輝き、ゲイと並んで大会MVP級の活躍。

フィールド種目でも歴史的偉業が生まれ、女子七種競技ではスウェーデンのカロリーナ・クリュフトが大会3連覇という快挙を達成しています。

またトラック長距離では、米国のバーナード・ラガト男子1500mと5000mの二冠を成し遂げる離れ業を見せました。

アジア勢の活躍も光り、男子110mハードルでは中国のエース劉翔(リウ・シャン)12秒95の好タイムで金メダルを獲得し、大阪のスタジアムに詰めかけた多くの日本人・中国人ファンを熱狂させました。

男子走り幅跳びは、パナマのアービング・サラディーノ最終6回目に放った8m57のビッグジャンプで大逆転優勝し、自身とパナマにとって初の世界陸上金メダルをもたらしました。直前まで首位だったイタリアのアンドリュー・ハウも5回目に8m47のイタリア新記録をマークしており、両者の激しい“ラストジャンプ決戦”は大会屈指の名勝負として語り継がれています。銅メダルは米国のドワイト・フィリップス(8m30)。サラディーノの8m57は当時の南北アメリカ大陸記録、ハウの8m47は現在もイタリア記録として残っています。

また男子走高跳は、バスケットボール出身の“新星”ドナルド・トーマス(バハマ)がわずか陸上歴3年目にして2m35をクリアし、シルバーコレクターだったロシアのヤロスラフ・リバコフ、キプロスのキリアコス・イオアンヌとの3人全員2m35の大接戦を試技数の差で制しました。トーマスの2m35はその年の世界最高タイで自己ベスト。3人が並んで会心の跳躍を連発したファイナルは、酷暑の大阪スタンドを大いに沸かせる“ジャンプ合戦”となりました。

男子やり投げでは、フィンランドのテロ・ピトカマキ2回目に放った89 m16で先頭に立つと、最終6投目には会心の90 m33をマークしてライバルとの差を決定的に広げ、自身初・フィンランド勢としては10年ぶりの世界王者に輝きました。2位はノルウェーのアンドレアス・トルキルドセン(88 m61)、3位は米国のブロー・グリア(86 m21)。ローマ国際(2007年7月)で誤って槍を走り幅跳選手に当ててしまった“事件”を乗り越えたピトカマキが、真夏の大阪で完全復活を印象づけたドラマチックな優勝でした。

その他にも、男子50km競歩ではエクアドルのジェファーソン・ペレス3大会連続優勝で競歩界のレジェンドぶりを発揮し、女子マラソンではケニアのキャサリン・ヌデレバが厳しい条件を制して優勝するなど、各種目でドラマチックな名勝負が繰り広げられました。記録的には低調と言われた大会ですが、その分人間ドラマとして語り継がれるシーンが数多く生まれたのです。

大会運営の舞台裏と観客動員

大会全体を振り返ると、運営面や観客動員についても話題が残りました。

まず観客数について、大会期間9日間の延べ入場者数は約35万9千人にのぼりましたが、地元・大阪市が目標として掲げた45万人には届きませんでした。猛暑や陸上競技の認知度など様々な要因が考えられますが、それでも連日スタンドには多くのファンが詰めかけ、特に最終日には約3万6千人の大観衆が日本選手や世界のスターに熱い声援を送りました。

一方で大会運営面のトラブルもいくつか発生しました。中でも大きく報道されたのが、男子50km競歩で日本の山崎勇喜選手が係員のコース誘導ミスによって本来より1周早くゴールに入ってしまい、途中棄権(失格)扱いになるアクシデントです。約4時間にも及ぶ過酷なレースを戦い抜いた末の無念の結末に、本人はもちろん多くの観衆が胸を痛めました。

この他にも、海外選手団のホテルチェックイン手配ミスや、選手送迎バスの不足、女子マラソンのコース上に一般の自転車男性が乱入するハプニング、さらに練習用トラックで選手同士が衝突しそうになる場面が何度も起きるなど、運営スタッフの準備不足・連携不足を指摘する声も上がりました。

現場を取材した海外メディアからも「日本は準備万端なはずなのにどうしたのか?」と疑問の声が上がったほどで、大会後には運営面の反省点として議論されています。とはいえ、大会期間中ボランティアや関係者は猛暑の中奮闘し、大会自体は大きな事故なく無事に閉幕しています。

おわりに:記憶に残る大会として

2007年の大阪世界陸上は、猛暑という試練の中で数々のドラマが生まれた大会でした。日本選手にとっては目標に届かず悔しい結果もありましたが、土佐礼子選手の銅メダルやリレーチームの健闘など、観客の心を動かすシーンが多数ありました。

世界のトップアスリートたちも記録以上の熱戦を展開し、猛暑をものともしない超人ぶりと人間ドラマで我々を魅了してくれました。運営面の課題は次回開催以降への教訓となりましたが、真夏の大阪で繰り広げられた「記録より記憶に残る」名勝負の数々は、今なお語り草となっています。

大会を通じて陸上競技の奥深さと感動が多くの人々に伝わり、日本陸上界にとっても貴重な経験と財産となったと言えるでしょう。世界中の超人たちが集結したあの夏のドラマは、陸上ファンの胸にいつまでも刻まれています。